「あんなドス黒い妬みや蹴落としの蔓延る世界になど、鈴は染まりたくはなかったんだ」
「つまり彼女は、楽しくもない、本来なら行きたくもない学校に、母親のためだけに通い続けたというワケか。自己犠牲か。くだらないな。唐渓で己が蔑みの対象になっていたのは、つまりは母親のせいだというワケか」
「そんなつもりは」
「でもそうだろう。彼女の行動がそう語っている。悪いのは私ではない。唐渓へ通う事を望んだ母親のせいなのだと」
「そんな、母親のせいだなんて」
「彼女はそういう人間だ。彼女の中では、悪いのは母親であって、自分ではない」
「違う。彼女は母親を責めた事など無い。間違っている人間がいると言うのなら、それは唐渓に通う他の生徒であって、母親に責任を求めた事など無い。彼女もそう言っていた」
そうだ。そうだったはずだ。彼女は、みんなが私たちのようになればいいのに、と言っていた。唐草ハウスの縁側で、星空を見上げながら呟いた事もあった。
「悪いのは他の生徒なんだ」
そんな相手に、慎二はゆったりと瞬く。
「どちらにしても、大差は無い」
魁流も瞬いた。こちらは忙しなく、何度も。
「悪いのは他人だ。自分ではない」
風が一瞬止んだ。夕凪にしては時間的に遅い。
「唐渓での生活の中でもそうだった。織笠は、他人の目には、清純で、純粋で、どのような仕打ちにも耐え忍ぶ誇り高く聡明な人間。だが、心内は違った。自分を貶す周囲を快くは思わず、冷ややかに見返し、反発していた」
「本当に毎日毎日、みんなよく飽きもせずに嫌味や僻みや蹴落としばかりを口にできるものね」
慎二は、そっと唇を舐める。
「彼女は、正しいのは自分で、間違っているのは周囲だと信じていた」
風が戻ってきた。涼木魁流の、柔らかな前髪が揺れる。
「世の中がみんな私たちのようになればいいのに」
「周囲と争うような事はしなかったが、だからといって周囲と調和していたというワケではない。むしろ、拒絶していた。避けていただけなんだよ。彼女は、そういう人間だったんだ」
「いい加減にしろ」
「彼女はただ、避けただけだ。周囲を避けながら、巧妙に仕組んでいた。自分が善と見なされ、周囲が悪と見なされるように立ち振る舞っていた。自分を善人と見せるには、唐渓は恰好の場所だ。欲や蹴落としの蔓延している世界だからな。そういう場所で一日一善なんてやってみろ。その人間はあっという間に正義の象徴た。真面目で、美しく、強く、正しい人間として周囲の目には映る」
「いい加減にやめるんだ」
「これは彼女の詭計だよ。俺もお前も、周囲の人間のすべてが、彼女のトリックに嵌められていたんだ」
「いい加減にしろと言ってるだろっ!」
ありったけの声で叫んでいた。すっかり夜になってしまった埠頭に、彼の叫び声が響き渡る。ひょっとしたら対岸にまで届いていたのかもしれない。それほどまでに激しい声で怒鳴り、魁流は両手を振り上げた。
「やめろ、今すぐにそんなくだらない持論は撤回しろ」
「間違ってはいない」
「大間違いだ。だいたい、鈴が偽善者だと? 薄情だと? 狡猾だと? よくもそんな酷い事が言えたものだな。本人がいない事をよいことに次から次へと。そうだ、鈴は死んだんだぞ。お前の彼女に殺されたんだ」
ビッと右手の人差し指で慎二を指す。
「お前の彼女の、桐井愛華に詰られて追い込まれて死んだんだ。なぜそんな彼女がお前なんかに侮辱されなければならないっ!」
「それもトリックだ」
慎二は、激しい形相で睨みつけてくる相手を、変わらぬ冷ややかな視線で見返した。
「彼女は、逃げたんだよ」
「逃げた?」
「保身の為に、逃げたんだ」
織笠鈴は、人との争いは好まなかった。だから、同級生に彼女が反論するのは、とても珍しい事だった。だからこそ、周囲の記憶に鮮明に残った。
「彼女は、これなら敵うと思ったんだ」
「敵うって?」
首を傾げる美鶴へ向って、慎二は冷笑を浮かべる。
「言い負かせると思ったんだ」
彼女は、その物静かな態度とは裏腹に、周囲に対してはそれなりの反発心を胸に秘めていた。だが、それを表に出すことはできない。表に出せば、諍いが起こる。言い負かされれば、こちらが間違いとなってしまう。
正しいのは自分だ。だから、自分が間違った立場に追い込まれるような争いは、起こしてはならない。
「だが、犬を捨てる事は悪い事だ。それを悪びれもせずに口にする同級生なら、反論しても勝てると思った。どのような論理を持ち出されても、自分が正しいに決まっている。まぁそうだろうな。犬を捨てるだなんて行動、どう転んでも正しい行動にはならない。咎めた方が有利になるのは当然だ」
だが、結果は違った。思いもよらぬ援護が現れた。巧みな話術で言い負かされた。負けないと確信していた争いに、負けた。
「違う。彼女は、犬を捨てるという行為が許せなかったんだ。だから反論せずにはいられなかった。他人の目を計算していたはずがないっ!」
「織笠鈴に、どれほどの動物愛護精神が備わっていたかは知らない。だが、結果的に、彼女は逃げた」
「逃げた逃げたって、さっきから何だ。何がどう逃げたと言うんだ」
「彼女は、自ら命を絶った」
「だからそれはっ!」
「もし本当に犬を捨てるという同級生の行動が許せないというのなら、そんな人間をこの世に残したまま自分だけが別の世界へなど、旅立ったりはしないはずだ。それはこの世で理不尽に扱われている動物たちを見捨てる事になる」
美鶴は、全身が総毛立つのを感じた。ザワザワとした気味の悪い感覚が肌の上を這いずりまわっているような気がして、思わず両手で両の肘を抱いた。
「本当に許せないと思っていたのなら、そんな輩を野放しにしたままあの世へなんて行ったりはしない。争う事が醜かろうがなんだろうが、捨てられる犬や猫や、その他虐待される多くの動物のためならば何度でも反論したはずだ。口で敵わないのなら別の方法は無いものかと思案し、いつの日にかは問題を解決しなければならないと心に決意するものだと思うがな」
「そんなに強い正義感が、彼女にはあったのかな?」
首を傾げる瑠駆真に、慎二は薄っすら瞳を細める。
「コイツが言うには、彼女は正義感の塊みたいなものだったらしいぞ」
顎で指されても、魁流はそれを睨み返すだけ。そんな相手の態度を瞳の奥でからかいながら、慎二は続ける。
「だが彼女はそうはしなかった。翌日、自分の机の上に置かれていた猫だか犬だかの遺骸を目にして、その日の夕方には命を絶った」
「あんなふうに猫が扱われたのは自分のせいだと思ったからだ。罪の意識からだ」
「自分を責めるような素振りは見せたが、猫の遺骸を置いていった犯人を捜そうとはしなかった。猫のために立ち上がろうとはしなかった」
「立ち上がるだなんて、そんな大袈裟な」
思わず声を出す聡を、慎二は一瞥する。
「自殺する方がよっぽど大袈裟だ」
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